コメントや反応をしよう!クリエイターが望むお客さんとの交流の話
こんにちは。ボイストレーナーのでんすけ(@densuke_snail)です。
モノを作ってそれを公開して。
そこになんの反響もなかったら寂しい気持ちになる。
歌を歌ってても同じ。「うまかったよ」とか、「あそこはもっとこうしたら」とか、何かしら反応が欲しいものです。
そんな経験、ありませんか?
僕も、自作曲を(数える程ですが)公開しているのと、
こうしてブログを書いているので、
反響がない寂しさは大いに理解できます。
今回はそんなお話。
クリエイターはコメントし合おう
そもそも、こんなことを書こうと思い立ったのは、こういう記事を見かけたからです。
要するに、クリエイター側は自分の作品を見て欲しい、
そしてコメントして欲しい!と言っているにもかかわらず、
他のクリエイターに対するコメントをほとんどしていないじゃないか、ということ。
だから、みんな気軽にコメントし合おうよ、ということ。
ごく短く要約するとそういうことかと。
僕自身があまりコメントをしなかった理由
正直いうと、僕自身、あまり他の人に対して積極的にコメントをしないタイプでした。
今でもそうですが。。以前よりはマシ。
それは、あまり自分自身が表に出るのがそもそも好きではなかったこと、
僕なんかがコメントするのはおこがましいと思っていること、
そこまで興味があるわけでもないのに「いいね」とか押しちゃうことで、
「気に入ってもらえた!評価が上がった!」とぬか喜びしていただくのが
なんだか忍びないなと思っていたこと。
そういったあたりが主な理由です。
特に最後の理由とか自意識過剰な感じがして偉そうですが、
まあ正直に語るとそんな感じです。
みなさんも、理由の違いはあれど、そんなに積極的にコメントするのもなー、と躊躇した経験があるのではないかと思います。
クリエイターはぬか喜びしたい
逆に、僕自身がブログを書いたり曲を作ったりして感じたのは、
ちょっとしたぬか喜びみたいなものでも、やる気の源になるな。ということ。
あの「いいね」のシステムは便利と言うべきか、
「まあまあいいんじゃない?」ぐらいでも気軽に押せます。
「感動した!」「全俺が泣いた!」ほどではないかもしれません。
「まあまあ」でも押せちゃう。
そんなわけなので、作品を見る側の僕、「いいね」を押す側の僕は、ぬか喜びさせちゃうと悪いな、と思って押すのをやめていました。
でも、作る側、「いいね」を押される側の僕は、1つでもそういう反応があると嬉しいと思うわけです。
ぬか喜びかもしれない、と知ってはいる、それでも嬉しい。
反応をもらう喜びというのは、そんな小さな一歩から始まるのかも知れないなと、そう感じるわけです。
コメントし合う文化には賛成です
そんなわけなので、僕自身、最近ちょっとこれは面白いな、という内容の、特にツイートに対しては、気軽に「いいね」やリツイートをするようにしています。
言葉でコメントをするのはまだ慣れないのもあってあまりやらないのですが。。
でも時々こうやって、引用したブログの内容に反応して自分の意見を書こうとするのも、ここまで書いてきた心境の変化があったからです。
そんなわけで、みんな僕のブログや作品にどんどんコメントしようぜ!
あ、批判はやめてね。凹んじゃうから。。
建設的なご指摘は真摯に受け止めさせていただきますが。
無反応は、ある意味クリエイター側の反省点
反応をくれよ!と言いつつ。
作る側とすれば、「反応がない」=「ウケなかった」と素直に反省すべき材料であるとも言えます。
なので、これは無反応になってしまうのか、こういうものは皆が欲しがるのか、というのを受け止めつつ、モノを作っていかないといけないということですね。
ただ、あまりに全員が無反応だと、その反省材料にすらできないし、
「俺の作るモノは何もかも要らないものなのか!?」ということになりかねないし、
精神衛生上もよろしくないわけで。
ほんとは「まあまあ見ててあげてもいいなあ」と思っていたクリエイターが、
そこで諦めてしまって二度と見られなくなってしまう、という事態にならないとも限らない。
そんなわけで、ある程度、コメントするハードルは低めに設定されていると、作る側としても、見る側としてもいいことなんだと思います。
反応することが強要されるのも違う
冒頭で挙げていたブログ記事では、釘をさすように
「無反応も100%悪いわけじゃないよ」と書いています。
また、Twitterでもこんな意見が。
そう考えると、先述の記事で提案されるコメント推奨文化というのはニコ動ブームの時流に乗れるような人たちの感覚、すなわち程ほどにアングラで程ほどに交流やテキスト表現を好む人たちの感覚を提示したものであって、それって実は多数派ではなく多様性を生むとは限らないんじゃないか…と感じてます。
— あおいん (@aoiiiin) November 22, 2016
ところが実はこの手の規範って時代が変わってただの阻害要因でしかなかったことが明るみになるケースもあって、例えば最近だとハロウィンの一般化でコスプレ自治厨が憤死したり、ユーリ on ICEに生モノBL自治厨が憤死してるらしいじゃないですか。
— あおいん (@aoiiiin) November 22, 2016
ニコ動やネット界隈の音楽事情、コスプレ界隈の事情に触れつつ、
それぞれの環境で、それぞれの規範、楽しみ方が構築されてるんだから、
環境ごとに議論されていいことなのでは、というようなことを書かれています。
逆に、コメントが強要された空気が、楽しみ方を阻害してしまうケースもある、ということ。
僕はその辺りの事情には詳しくない(後半の方の専門用語っぽいのがなんとなくでしかわからないw)ので、
想像でしかないですが、確かにそういう歴史的な流れがあってもおかしくはないかなと。
以前の僕のように、コメントするのもなー、と思ってる人に「コメントくれ!絶対くれ!」と言ってもウザいだけになってしまうし。
「一人でこっそり楽しむのがいいんじゃい!」と思ってる人は、絶対にコメントなんかしないだろうし。
これに関しては、若干アングラ寄りの界隈の話だから成り立つ話、なのかもしれないけど。
いずれにせよ、コメントが強要されるのも良くないというのも事実な気がしていて。
そうなると、コメントを書く、という行為に対して、心理的ハードルをもうちょっと低くしとこうよみんなという呼びかけにとどめるのが現実線なのかな、と思います。
コメントするのもある種のスキル
先ほどの方、続けてこんなことも書かれていました。
音楽の感想を書くって元々難しい行為じゃないですか、感動という非言語事象を言語化するんだから。まともなこと言おうと思ったら何らかの素養がいるし、そういう能力があったとしても必ず何か書けるとは限らない。「新曲マジ最高」以上のこと言う人って現実には少ないはずなんですよね。
— あおいん (@aoiiiin) November 22, 2016
そういうわけで言いたいことがとっちらかっておりますが、音楽コンテンツとしての音楽批評が成立するのと同じように、感想ツイートという行為も創作の一部として成立するし、それなりの困難があり価値があるんじゃないかという話でした。
— あおいん (@aoiiiin) November 22, 2016
コメントするという行為にも、ある程度スキルが必要よねという話。
確かに、文章にまとめて書く、というのは、それなりに労力のかかることだし、時間もかかります。
ちょっとした文章を書くのに、あーでもないこーでもない、こう書くと伝わりづらいかな、誤解されないかな、なんて考えながら、ほんの数行の文章を書くのに
30分とか小一時間かかっちゃう、なんて経験をされる方もいらっしゃるのでは。
そういう意味では、手軽に押せる「いいね」やら「リツイート」やら「シェアする」のボタンは、結構すごい発明だったんだなと思います。今さらながらですが。
まずはそういう手軽なもので反応をして、気持ちが高ぶったり、いいねじゃ伝えきれないこの気持ちっ!みたいになったら、文章書いたり、カバーやリミックスしてみたりして交流してみるといいと思います。
そこからより良いモノが生まれるかもしれないし、少なくともクリエイターを引退させないことに繋がるかもしれません。
まとめ
ということで、コメントや反応をするハードルを低くしとこうよ!という呼びかけでした。
クリエイター側に良い話だけでなく、見ている側も、こんなのを作って欲しいという意見の表明になったり、新しいモノを作るタネになったりするので、お互いにとって良いことのハズ。
僕も、積極的にリアクションしていきたいと思います。
それではまたー。
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— でんすけᔦꙬᔨボイストレーナー (@densuke_snail) March 9, 2018
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さっそくコメント失礼しますー(たまに拝見してます)。
音楽の評価はもちろんですが、それについてのコメントの評価もなかなか難しいものですよねー。
ここが好き、みたいな簡素なコメントから、
ブログ主に伝わる範囲の用語を見極めて事細かにここでこういう展開、コードを選んだのがすごい、
とか。
結局コメントをする前に相手に伝わる言葉を見定めるために直近の記事を何件も読んでみて、雰囲気を探ってみたりと、結構自分の場合労力かけてもいいと踏んだ時にコメントしたりすることがよくあります。
そういえば、実は曲を全部聞いてない、とか
電車内で特定の音域が現実の雑音で邪魔されるなどあまり整った環境で聞いてもらえてない、
なんてこともあったりと、様々なコメント主の状況に一喜一憂してしまうのもナンセンス感拭えなく、
コメントして下さる方の内容は曲の感想となると相手の状況背景が見えない方については超ピンポイント評価されてる箇所以外はあくまで自己満足範囲をこえないものかなぁ、と個人的に思っているところです。
こういう記事ばんばん待ってます。
DAWな~さん、コメントありがとうございます!
コメントをもらった側がどう読むか、というのも確かに難しい話ですね。
確かに、どんな環境で聞いてもらっているかもわからないし、
音楽的な素養がどれぐらいある人からのコメントかもわからない。
その辺りの諸々の、正体のわからないノイズやフィルターを通しているコメントだとしても、
コメントした側が最も伝えたいことが伝わってくればそれでいいのかなと思っています。
結果的に「自己満足範囲を超えない」コメントになってしまったとしても、
コメントを読んでいる側に自己満足が与えられるのであれば、それでもいいと思います。
そもそも、コメントがなかったら自己満足すら得られなかったわけで。
こういうことも、コメントを書く側の「ほんとに伝わるかなぁ?」と尻込みしてしまう要素のひとつなのかもしれませんが、
まずは伝えてみることが大事なんだろうと思いますし、そういう意味でハードル下げておいてくれよ!という呼びかけです。
コメントの奥に潜む真意や、伝わりきらないポイントを、僕ら読む側は「あら探し」してしまいがちですが、
100%作り手側の思った通りに見聞きしてもらえることは、まず無い、ということを、コメントを読む側は認識しておかないといけないな、と思ったりします。
言葉や、音楽などの表現物って、そもそもそういうもので。
思った通りに伝わるのであれば、言葉や音楽ってもっと簡単なはずなんです。
そうじゃないから面白い、とも言えるのだと。
あと、「結構自分の場合労力かけてもいいと踏んだ時にコメントしたりすることがよくあります」というのは、ポイントになることだと思っていて、
見てくれる側に「コメントするハードルを下げとこうよ!」と呼びかけるのも良いことだと思っていますが、
作り手側としては、「労力かけてもいい」と思わせるものを、まずは作れよ、ということなんですけどね。
それって、大事なのは自助努力じゃん、というのはその通りなんですけど。
おだてられて木に登っていく、という成長の方法もあるだろうし、それを思いっきり公言しておいておだててもらいまくる、というのも、ひとつの戦略じゃないかな、なんて思います。
いいですね〜、こういったやりとりで記事の細かい点が補完されていくの、望ましく思えます。
確かに公言はとてもブログにも有効だと思います。
しっかりと思うところあるコメント応答って
得るものが多くてほんとに嬉しいものですね〜。
あ、あとどうでもいい体感なのですが、
各記事でのその人の最初のコメントって、まだ記事主とのやりとりが整ってない1番素直なものか滲み出てる気がしてなかなか侮れないな、と思ったりしてます。
今後も読みたくなるような記事お待ちしてます。